秋葉鐐二郎(あきばりょうじろう)
1930年東京生まれ。旧制高等学校廃止に伴い、1951年に東京大学工学部(分校として生産技術研究所に併設)に編入学。1960年、東京大学助手。1974年、同大学教授。1981年、文部省宇宙科学研究所教授。1992年、同研究所所長。1996年、北海道工業大学教授。1998年、宇宙開発委員会常勤委員。2000年、財団法人無人宇宙実験システム研究開発機構技術顧問。2003年、NPO法人北海道宇宙科学技術創成センター理事。2008年、国際宇宙航行アカデミー フォン・カルマン賞受賞。2011年、瑞宝中綬章を受章。
「ロケット推進入門」を手にとる秋葉先生
糸川英夫先生の影響です。大学生の時に機械を設計する卒業課題がありましたが、私はもともと製図が得意ではなかったので、小さな計測器を適当に描いて提出しました。すると、予備審査会で「こんなものじゃだめだ」と叱られて、指導教官だった糸川先生に「ロケットの教科書を一晩だけ貸してあげるから、ロケットの設計図を書いてみなさい」と言われたのです。ロケットなんて目に触れたこともない時代ですから、どのように書けばいいのかさっぱり分かりません。しかも、糸川先生が貸してくれたのは、ジョージ・P・サットンの「Rocket Propulsion Elements(ロケット推進入門)」という英語で書かれた本です。
当時の語学力ではとても理解できそうもありませんでしたが、やらないと卒業できないと思い、徹夜して必死で見ました。すると、幸いなことに数式だけは理解できたのです。数式を追って内容を理解し、翌日に本をお返しし、ロケットの設計図を提出しました。これが私とロケットの出会いです。でもその時は、ロケットのエンジニアになるとは思っていませんでした。さらに研究を続けるために大学院への進学を決め、そこで糸川先生のお手伝いをするうちに、ロケットの道へと導かれていったのです。私はこの年齢になって改めて、糸川先生のおかげで世界を見る目ができたとつくづく思います。
ロケット発射実験の準備を行う若かりし頃の秋葉先生
今でいうところの大学のゼミの指導教官として希望して割り当てられたのが、たまたま糸川先生でした。先生の講義がとても面白かったのを覚えています。当時の先生の専門は、心電図や脳波を計測する医療電子機器でしたので、先生が戦前に戦闘機「隼」を開発していたことも、大学に入ってしばらくするまで知りませんでした。「隼」は私が小学生の時に空を飛んでいて、憧れを持っていました。私もいつかあのような飛行機を作ってみたい、乗ってみたいと心がわくわくしたものです。でもその後、日本は敗戦を経験します。私は日本が技術力で戦争に負けたという気持ちが強く、技術に対する関心は戦後ますます高まりました。
軍事研究だけはやりたくないけれど、航空技術を勉強したい。そのような思いを胸に旧制高等学校に進学したものの、1950年に廃止となってしまいました。そこで私は浪人になり、自分の進む方向性もなく何となくブラブラしていました。そのような時に、文部省(現在の文部科学省)が救済措置として浪人生を東京大学の2年に編入してくれたのです。そこで出会ったのが糸川先生ですから、偶然の一致がきわどくつながって、ロケットの世界へ引き込まれていったように思います。
ペンシルロケット水平発射実験
第二次世界大戦後は飛行機の研究が禁止されていましたが、1952年にサンフランシスコ講和条約によって日本が独立すると、航空研究の禁止が解除されました。でも世界の空はジェット機の時代に入りつつあり、日本の航空分野は世界から大きく遅れをとっていました。一方、糸川先生は1953年に、医療電子工学研究発表のため2〜3週間アメリカを訪問なさいました。そして帰国後に、アメリカで開発が始まったばかりのロケットを日本でもやろうと言い出したのです。遅れをとった航空技術を追いかけるよりも、新しいことにチャレンジした方がいいと思ったようです。ただ最初は宇宙へ行くロケットというよりも、超音速・超高層を飛べるロケット飛行機の開発を目指していました。糸川先生のペンシルロケットは、もともとは宇宙とまったく関係のない計画だったのです。
ところが、1955年のお正月に、「東京からサンフランシスコまで20分で飛ぼう」という糸川先生の威勢のいい記事が新聞に載ると事態は変わります。その記事を見た文部省の方が、「ロケットでIGY(国際地球観測年)のプログラムに参加しよう」という話をもってきたのです。IGYとは1957年〜1958年に実施された国際科学プロジェクトで、高度100kmに達するロケットで上層大気の風や気温を観測するというプログラムがありました。糸川先生は科学者と協力してIGYに参加することを決め、1955年4月にペンシルロケットの飛翔実験を行う頃には、宇宙観測のためのロケット開発という目標がしっかり定められたというわけです。
ロケットモータ地上燃焼試験の集合写真。前列中央に糸川先生と秋葉先生(1962年)
ロケット開発の魅力は人によってさまざまだと思いますが、私の場合は、それまで研究してきたことを生かせるのが面白いと思いました。あまり勉強しなくても、ロケットの世界を見ることができると思ったのです(笑)。
でも何といっても、私たちをまず引きつけたのは、「ロケットをやろう」という糸川先生の強い思いです。何か新しいことを思いつくのは、集団ではなく個人です。最初は1人の意志から始まり、その個人が、周りの人に自分がやろうとしていることの魅力を一生懸命語り、説得して協力してもらう。これが新しい時代を築くということだと思います。
ロケットは機械的な部品ですが、糸川先生が電子機器を研究していたことで、工学の幅広い分野の専門家が集まりやすかったのも功を奏しました。総合工学的な支援体制が最初からできていたのです。また、IGYへの参加を決めたことで国からの予算もつき、単に面白そうということだけでなく、費用的な面でも研究者が集まりやすい状況だったと思います。
ペンシルロケットと糸川先生
頭の回転がとても速く、とにかく頭がいい人でした。どんな時も、二言三言、言葉を交わすだけで、こちらが何を言いたいかをすぐに理解してくれました。そのような人だからこそ、人を見る目は非常に鋭かったと思います。この人はどういうことができるか、どのような性格を持っているかということを、直感的に分かっていたように思います。私に「教科書を一晩で読んでロケットの設計図を書きなさい」と言ったのも、私のことを試したのだと思います。提出した設計図の内容がどうであれ、私に対しては、「一晩ではできませんでした」と泣き言を言う生徒ではないという評価をしてくれたかもしれません。糸川先生は、相手の年齢に関係なくはっきり物を言いましたので、年配の方に批判されることもありましたが、若い人に対してはとても温かく接してくれました。先生と私は18歳年が離れていますが、いつも可愛がってくれましたね。
いろいろありすぎて1つ挙げるのは難しいですね。例えば、1995年のペンシルロケット40周年で糸川先生が講演をした時に、「キンカンぐらいの大きさの衛星を作ろうと思っていた」とおっしゃっていました。日本のロケットの草創期に、3cmほどの小さな衛星を打ち上げることを真剣に考えていたのは、糸川先生以外にいなかったのではないでしょうか。誰もが思いつかないことを考えるところがすごいなあと改めて思いました。
ロケットの開発体制を作り上げたというのが一番大きいと思います。計算機もないような時代に、ロケットの理論をやっと勉強したぐらいの人が集まったのですから、誰も何が起こるか分からないというところから始まりました。それでも次第に、どんなことをすると何が起きるかが分かるようになってきます。例えば、ロケットの尾翼をひねるとどのようにスピンをするとか、どのように軌道が曲がるかということは、実験を重ねればだんだん分かってくるのです。これが、私たち研究者、技術者にとって大きな成果になったと思います。私はまだ学生でしたので皆のお手伝いをする立場でしたが、ペンシルロケットの開発現場に立ち会えたことにより、チームで取り組むことの大切さを学びました。
ベビーロケットと糸川先生
1958年9月に、2段式ロケットのカッパ6型でIGYへの参加を果たしました。IGYの期間は1957年7月〜1958年9月まででしたから、ぎりぎり間に合ったという感じですが、この期間中に自力で観測ロケットを打ち上げたのは、米ソのほか日本とイギリスだけでした。ですから、私たちの自信につながりましたね。日本の固体燃料ロケットの開発はIGYへの参加で弾みをつけ、より大きな衛星打ち上げ用のロケットを作るという新たな目標ができました。
しかし、1955年のペンシルロケット水平発射実験からわずか2〜3年で、高度100kmまで達するロケットを開発するのはとても大変でした。ロケット発射場を東京都の国分寺から秋田県の道川海岸に移し、ペンシルロケットからベビーロケット、カッパロケットへと大型化の開発を進めたわけですが、とりわけ新しい推進薬の開発に苦労しました。燃やす度に爆発が起きて、破片の前で呆然とすることが何度もありました。それでも諦めることなく、ただひたすら目標に向かって前に進むことだけを考え、IGYへの参加を実現したのです。