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  道川のペンシル  
秋田ロケット実験場

 次の最大の難関は、いよいよ本格的に上に向かって飛翔実験を行う場所の選定だった。落ちてきたロケットが危害を及ぼしてはいけない。外国のように広い砂漠のない日本としては、海岸から打ち上げて海に落とす以外にはない。そのためにはまず船舶や航空機の主要航路を避けなければならない。それに漁船が少ない場所がよい。学問的な研究なので、政治的な紛争からは一線を画したい。そこで文部省が中心となって各省次官会議で協力の打合せまで行い、関係各省が一切の面倒を見ることになった。

──1955年頃には海岸はすべて米国が占有していてね。空いているところは佐渡島と男鹿半島の2カ所しかなかったんですよ。当時糸川くんは私とペアを組んでチームを動かしていてね。まず私たち二人が海上保安庁の船を出してもらって、佐渡島を見に行きました。ところが当日は海が荒れて糸川くんは船にすっかり酔ってしまった。これでは佐渡島はとても機材を運搬することは考えられない。実験場としては落第だってんで、次に男鹿半島に行ってみたんだが、とても狭くて実験場として不向きでした。そこで私たちは相談して、道川なら男鹿半島に近いし、海岸で広く使えること、それから町が近いので寝泊りに宿屋が使えることなどが理由で、道川を選んで実験をやったのです。──(高木昇)

 高木と糸川は色々なことを相談して決めた。チームは、機械・電気・航空という分野の専門家の集まりである。これからの発射実験では、それぞれの分担した専門の所が故障して失敗を重ねてゆくことだろう。失敗箇所を分担した専門家は、当然故障原因は自分でよく分かる。だから反省はそれぞれの専門家がすべきであって、専門家以外の人が口出ししてはならない。グループは色々な専門家の集まりであり、決して専門以外のことで議論はしないこと、そういうことをお互いによく承知して戒め合ったのである。

 それから、電気と電気以外の専門家が組になって実験主任を行うこと、例えば、高木昇と糸川英夫、玉木章夫と斉藤成文、森大吉郎と野村民也のように実験主任の組み合わせが決まっていった。

 こうした経緯で、ロケット発射の舞台は、秋田県の道川海岸に移る。道川は1955年8月から1962年に至るまで、日本のロケット技術の温床でありつづけた。


道川駅の糸川
   

道川の発射場


道川の全員打ち合わせ
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