──その次に作ったベビー・ロケットはなかなかの物でして、何がいいかと言うと、まずは音速を超える手前までいけたというのが一つ、当時は速度を測る手段がなかったものですから計算上のことですが超えてなかったと思います。ベビーS型が最初です。ベビーT型はテレメトリを初めて載せました。これは高木昇先生や野村民也先生の出番でした。私も計測器を一つ加速度計のいい加減な物を一つ作った記憶がありますけど、これは働きませんでした。ともかくテレメータを載せたというのは大きな話でした。最後のベビーR型は、落下傘とブイを付けて回収もやりました。これも搭載機器は働いていませんでしたけど回収だけはしました。しかし基本的な観測ロケットとしての機能を一通りやったという意味はありました。高度は非常に低かったのですがそれを同じ年のうちにやったというのも中々たいしたものです。その前からロケット旅客機みたいな物を目的にやっていた研究の範囲でここまで計画していた訳です。1955年はそんな調子でした。──(秋葉)
ペンシルにつづくダブルベース推薬の二番手であるベビー・ロケットは、外径8 cm、全長120 cm、重さ約10 kgのベビー・ロケットだった。富士精密ではすでに先行的な燃焼実験を行っていた。ベビーは二段式で、S型・T型・R型の三つのタイプがあり、1955年8月から12月にかけて打ち上げられ、いずれも高度6 kmくらいに達した。S型では、発煙剤をつめ、その噴出煙の光学追跡によって飛翔性能を確かめた。T型は高木、野村や電気メーカーの努力の結晶であるわが国初のテレメータを搭載したロケットであり、R型は植村恒義の写真機を搭載し、これを上空で開傘回収をする実験に成功した。日本初の搭載機器の回収であった。
ベビーR型の1号機の時には、いつも糸川の愛用車を守っている方位神社のお守り札がロケットに乗せられて打ち上げられ、搭載カメラと一緒に回収された。海水に濡れたお守りを手のひらに乗せて、世界初の海上回収の喜びを語る糸川の写真が、翌日の新聞を飾ったことは言うまでもない。
糸川から、「ロケットを打ち上げる時の軌跡をトランシットで追跡し、地球観測年に所定の高度を確保するためのデータを収集してくれませんか」との依頼を受けた丸安教授の記憶。
──実験班に加わって、後方にある高地を選び、トランシットを据え付け、打ち上げられたベビー・ロケットを追跡することになりました。そのころ、アメリカで打ち上げられるロケット実験の写真を見ると、ロケットは真上に向かって悠々と大空に向かっています。しかし、道川のロケットは海の方向に向かって超速度で斜め上空に飛んでいく。アメリカと生研のロケットは燃料が異なるのだと教えられました。しかし、トランシットでロケットを追跡するとなると、望遠鏡の視野は約1°ですからロケットを一度見失うと再度望遠鏡の視野の中にロケットは戻ってきません。発射のカウントを聞きながら待機するときの緊張は容易ならざるものでした。──(丸安)
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