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決死の匍匐前進

 1955年9月19日、曇り、風強し。この日の午後3時ちょっと前、一人の男が道川海岸の小屋から出て、海の方に向かって匍匐前進を続けていた。それを物陰から固唾を呑んで見つめる男たち。男が這って行く方向を見ると、砂地の上にロケットが1機、ゴロンと横着そうに転がっている。いやよく見ると、転がっているのはモーター部分だけで、ちょっと離れた所にはロケットの頭部カバーが砂浜に頭を突っ込んでいる。

 男は背後の通称「かまぼこ小屋」から約70 mを駆けて来たのだが、ロケットを目前にして四つ足に変わり、ソロリソロリと近づいて行き、やがてロケットに手をかけた。事情をよく知っている他の男たちは思わず目をつむった。合掌する姿もある。そう、このロケット・モーターには推薬がつまっているのである。それだけではない。その推薬に火を点けるための点火器の作動時刻がとっくに過ぎている。

 つい先ほど、午後2時40分、ベビーT型ロケット2号機が打ち上げられた。1段目は順調に燃えたが、どういうわけか2段目に火がつかず、機体は35〜40 mだけ上昇して、ランチャーからわずか50 mほどの砂地に落下してしまった。航跡を見るために尾翼筒につけた四塩化チタンが空気中の酸素と反応し、酸化チタンの噴煙をあげている。さあ大変、いつ火がつくか分からない。しかも機体が変な向きに海岸に落ちていると、火がついたが最後、このロケットは実験班が避難している方へ飛んでくるかもしれない。

 不気味な静観が続いた。やがて噴煙はおさまった。そしてこの男、戸田康明の命を賭しての匍匐前進とあいなったのである。実はこのロケットの打上げ前、戸田は恒例により秋田銘酒一本、榊をランチャーのそばに供えている。その願かけは、このベビーには通用しなかったらしい。実験班注視の中、戸田はロケットのそばでしばし点検をしていたが、点火器への導線を切断しアースさせた。そして、「オーイ、もう大丈夫だぞーっ」と叫んだ。ワッとあがる歓声。実験班の面々が戸田とベビー・ロケットのまわりに駆け寄り、2段目は回収された。と、その時、「かまぼこ小屋」の方から驚きの声が・・・
「テレメータが送信を始めた!」



ベビーの胴体を割りパラシュートと頭部を切り離す


ベビーRの着水


ベビー回収(巡視船みくら)


爪本の八艘飛び
──ベビーTのTはテレメータのTで、測定データの送信に使用するテレメータのテストをしました。ロケットは元々搭載物を運ぶためのものですから、ペイロードをどこかへ運ぶわけです。将来、そのペイロードを運んだ時に、ペイロードが正常に作動しているかどうか等のデータを電気的に送信する必要があります。それがテレメータです。

 レーダーは、もう少しロケットが大きくなってからでしたが、明星電気の瓜本信二さんの有名な「義経の八艘飛び」という話があります。どういう話かと言いますと、地上のレーダーアンテナは、飛んでいるロケットに搭載したレーダー発信器が発信する電波に追従しなければなりません。地上のレーダーアンテナが正常に作動するかどうかをチェックするため、発信器を移動してテストをしました。その頃は瓜本さんが発信機を抱えて走って、それをレーダーアンテナが追いかけたのです。地上の砂浜だけではなく、次は海の上はどうか、という事で海の上を船で移動し、それを追いかけるという事もやりました。瓜本さんが、船から船へレーダーを抱えて飛び移って走るものだから、「義経の八艘飛び」です。──(垣見)

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