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  プロローグ  
AVSAの成立

──昭和25年に生研が出来た頃、それまでGHQから禁止されていた研究がいくつかありましたが、そのひとつが航空機の研究で、電気だとマイクロウェーブの研究でした。講和条約が成立すれば独立しますから、そういう制約が取り払われて好きなようにいろいろな物を研究できる、そういう時代が目前にあった。第二工学部でも航空関係の学科がありました。そこの先生方は航空研究再開の気運で自分たちも何かひとつ考えようじゃないか、という事になったのでしょう、その中心になられたのが糸川先生です。

  当時はコメットという航空機が飛んでいました。世の中はジェット機時代になりつつあったわけです。糸川先生は「ジェット機の研究はあまりにも差がつきすぎているので、いまさらジェット機をやったところでたいした事はできない」と言うのです。そこから先があの先生の飛躍的な発想のひらめきなのでしょう、いっそのことジェット機を飛び越えてロケットはどうだろう、と思いつかれたわけです。ロケットを輸送の手段にする、という事を掲げてみたらどうだ、という事で、関係ありそうな方々に声をかけて勉強会を始められました。──(野村民也)


 第二次世界大戦が終わると、連合国司令部は日本の軍備を徹底的に解体した。もちろん飛行機の研究は禁止された。戦時中多かれ少なかれ航空機の設計・製作に携わってきた航空工学のスペシャリストたちは、研究の対象を失って途方に暮れ、やがてより基礎的な分野やそれぞれの専門に近い学問領域へと散っていった。

 1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約によって日本が独立したとき、世界の空はジェット機の時代に入りつつあった。イギリスのジェット旅客機コメット1号は1949年にデビューしていたし、フランスのカラベルも設計が開始されていた。戦後間もなくいろいろな分野に散った航空工学の専門家たちは、再び日本に戻ってきたが学問の自由を背景にして、続々とジェット機の研究になだれ込んでいった。

 しかし1953年から半年間をアメリカで過ごした、東京大学生産技術研究所(以下「生研」)の糸川英夫は別の考えを持ち、帰国後、生研所長の星合正治に進言した。

 「アメリカはすでにロケットの時代に入りつつあります。我々もロケットをやりましょう。ジェット機と違って空気のないところでも安定して飛べるロケットで、宇宙を自由に飛び回りましょう」。

 将来の輸送機として航空機に代わる超音速・超高層を飛べる飛翔体を作ろう、という糸川のこの魅力的な「ロケット機構想」に心を強く捉えられた第二工学部の若い研究者たちが、専門分野を超えて幅広く結集した。そして1953年12月の準備会議を経て、翌年2月5日、AVSAという研究グループが生研に誕生した。AVSAとは、Avionics and Supersonic Aerodynamics。つまり航空電子工学と超音速の空気力学・飛行力学を究めていこうという、新しい息吹きに満ちた出発だった。




ペンシルロケットを持つ糸川先生
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