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プロローグ
糸川の仕込み

 これに先立つ1953年10月3日、糸川は、経団連の主催で講演会を開き、ロケットや誘導弾に興味のありそうなメーカーを集めた。当時の会社名で言えば、日平産業、東京計器、三菱造船、北辰、東京航空計器、東芝、日電、新三菱、川崎重工、日立、日本ジェットエンジン、日本無線、富士精密の13社、それに保安庁から6名ほど、全員で40数名の出席であった。糸川は、まずアメリカでのロケット開発の近況を述べ、固体ロケット、液体ロケット、原子力ロケットと、順々に説明していった。次いで誘導方式、空気力学等、幅広い分野にわたって約2時間熱弁をふるった。富士精密KKの戸田康明もその講演会にいた。

──上司から行ってこいと言われて糸川先生の話を聞きに行き、そこで初めて糸川先生の顔を拝見したわけです。その時の講演は、とにかくロケットというものが、日本でジェットエンジンの研究は遅れたけど、ロケットはこれから日本でやってもアメリカに遅れをとらないでやれるということで、話はロケットの原理から始まり空気力学や誘導関係など難しい話を聞きました。私は会社から行きましたけど、それまでロケットの事は何も知りませんから、会社に戻ってそのままにしていました。しばらくして上司から「糸川先生に協力して、お前が主体になって当社でロケットを開発せよ」と言われ、大変な事になったというのが本音です。──(戸田)

 戦前から液体燃料ロケットの研究に従事していた三菱重工業KK長崎工場の平岡坦の所を糸川英夫が突然訪ねてきたのは、その直後のこと。宇宙開発を始めるに当たって三菱の協力が得られるかどうかの打診であった。平岡は書いている。「当時三菱重工業は三つの重工に分割されている時代で、宇宙開発の何たるやの認識はなかった。ソ連による初めての人工衛星がこの時より4年後に打ち上げられたという時期であるので、田舎の長崎はもちろん、東京の本社の人の感覚をもってしても理解できなかった。」

 糸川は再度三菱の本社に足を運んで話をしたが、「当時の社の気持ちとしては先生の卓見にどうしてもついて行けず、お断わりするようなことになった」(平岡)。

 このように、経団連での講演の後で、糸川は数社を回りロケット開発に協力する会社を探しているが、積極的に協力を申し出る会社はいなかった。故松下幸之肋にいたっては「糸川先生、そいなもん、もうかりまへんで。五十年先の話や」とにべもなかった。

 戦前糸川が勤務していた富士精密が、唯一協力することとなった。以後プリンス自動車、日産自動車を経て、現在のIHIエアロスペース社に姿を変えるまで、このグループは常に日本の宇宙開発を核となって支え続けることになる。この固体燃料ロケットに富士精密が協力を申し出たとき、富士精密には糸川の中島飛行機時代の同僚、中川良一が取締役をしており、その指示を受けた同社荻窪工場の技術部長が戸田康明であった。

──ロケット開発を担当せよと命ぜられ、ロケットのロの字も知らぬのに困ったなと思いました。1953年10月、初めて糸川先生に面接し先生の熱意に感銘し御協力を誓いました。先生の頭の鋭さ、理解の早さ、大臣級の人なども説き伏せる能力、報道陣への宣伝・応対等その行動力はただ驚くばかりでした──(戸田)

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