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 スプートニク、ガガーリンなどと同様、レオーノフ氏も宇宙開発競争の勝利の象徴として、時の政権の政治的宣伝(プロパガンダ)に関わることになった。地上での冷戦のいっぽうで、宇宙では協調の芽が生まれはじめていた。









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「若くて元気で十分な訓練を積んだ宇宙飛行士が、一緒に働いている姿を世界に示せたのだ」
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「真の“共同作業のモデル”を示すことができた」
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「1972年にアメリカとソ連が結んだ宇宙条約により、1975年にアポロ18号とソユーズ19号の共同有人宇宙飛行実験が行われました。これは「共通のドッキング装置」をテストするためのものでした。両国の宇宙船がドッキングできるようになれば、どちらかの国の宇宙船が事故にあっても、もういっぽうの国の宇宙船が救出に向かえることになります。両国が協力すれば、宇宙開発にかかる費用や機器の数を減らせるという利点もありました」
			(同「スペース百科」より)


Q. 1975年の「アポロ-ソユーズ計画」は、現在のISS(国際宇宙ステーション)につながる最初の一歩ではなかったかと思うが、レオーノフさん自身はどう振り返られますか?

アポロ-ソユーズドッキング(イメージ画)A. それに先立つ1972〜'73年ごろは政治的に困難な時期だった。いつでも戦争が起こりうる、一触即発の絶望的な状況でした。冷戦で世界は2つの陣営に分かれていたが、いま考えてもどうしてあれほどの状態になってしまっていたのかと、怖ろしく思うほどだ。
 しかしこの時期、賢明な考え方をする人たちも現れた。ソ連のコスイギン首相、アメリカのニクソン大統領、ソビエト科学アカデミーのケルビス氏、NASAのレイチェル長官らがそうだ。このような危機的状況のなかでも、何とかして世界に(対立とは違う)「他の道もあるということを示したい」と、その思いがこの計画を実現させたのだと思う。
 若くて元気で十分な訓練を積んだ宇宙飛行士が、ソビエトから宇宙に、アメリカからも宇宙に飛び立った。そして宇宙でドッキングし、一緒に働いている姿を世界に示せたのだ。



「当時のアメリカとソ連が冷戦状態にあったにもかかわらず、アポロ18号とソユーズ19号の宇宙飛行士たちがとても友好的だったのは、3年の準備期間のあいだに彼らがすでに親密な間柄になっていたからでした」
			(同「スペース百科」より)


アポロ-ソユーズ計画で軌道上のレオーノフ計画を進める上でいちばん困難な問題は、相互信頼だった。私たち宇宙飛行士はすぐにお互いを理解し合えたが、(地上では)米ソ双方から5000人以上の人が参加している。それだけの数の人たちがお互いを理解し合うのはとても難しいことだが、しかしそれなしにはミスなく計画を進めることはできなかった。
 地上との連絡回線を保持し、生命維持装置をきちんと機能させ、宇宙船内のガス環境をコントロールするなど、お互いの密な連絡が必要な項目は膨大な数にのぼっていたからだ。
 そして1975年7月18日、60億の人々が見守るなか、このプロジェクトは成功し、世界の人々に希望を与えることができた。もちろんこれを気に入らないという人もいたかもしれないが、私はここで真の“共同作業のモデル”を示すことができたと思っている。


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