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  国分寺のペンシル  
ある新聞記事

──ペンシルロケットは1955年の1、2月頃までは宇宙とまったく関係のない計画でした。しかしその年の正月の新聞に「東京からサンフランシスコまで20分で飛ぼう」という糸川先生の威勢のいい記事が載りました。それを文部省の岡野さんという方が御覧になって、その当時南極観測をやっていた永田さんが「ロケットでIGYに参加しよう」という話を持ってきていたので、両者をくっつけたということがその年の初めにありました。これがその後の方向付けとなりました。ペンシルの生まれは怪しげでしたがペンシルロケットを実験する頃にはIGYへの参加という宇宙観測のためのロケットというしっかりした位置付けが出来た訳です。──(秋葉鐐二郎)

  1954年春、ローマ。第二次世界大戦の後初めてのIGY準備会議が開催された。このIGY(国際地球観測年)は、世界中の科学者の参加によって共同観測を行い、地球の全体像を明らかにしようというプロジェクトである。このたびの第三回IGYは、世界大戦後の飛躍的な技術革新を背景にして、戦勝国であるアメリカ、イギリス、ソ連の強力なリーダーシップのもとで開かれることになった。その最初の準備会議が、ローマで行われたわけである。

 この準備会議により、二つの特別プロジェクトが組まれることになった。一つは南極大陸の観測、もう一つは観測ロケットによる大気層上層の観測である。アメリカは「ロケットはアメリカが提供するから、日本はそれに乗せる観測機器を作ってはどうか」と親切に申し出てくれた。

 この会議に出席していた東京大学の永田武は、すぐさま学術会議の茅誠司に電報を打った。アメリカの申し出を述べた後に「一週間後に会議がある。それまでに返事が来なければ、学術会議はIGYでの日本のロケット観測にOKだと答える」。後に「永田の脅迫電報」と呼ばれるものである。しかし、この時は茅が穏便な電報を打ち返して、問題は永田の帰国後に持ち越された。

 帰国後の茅・永田会談を経て、日本学術会議ではIGY特別委員会を設けて計画を立案し、政府に強力なバックアップを勧告した。当時、文部省大学学術局学術課長の職にあった岡野澄は、IGYの政府側窓口として計画の実施に当たり、

──私は、測地学審議会を活用し「研究者による観測計画は学術会議が行い、これに基づく関係各機関の観測業務計画の連絡調整は測地学審議会がこれに当る」という基本方策を確立し、一方大蔵省と協議して、IGY予算は文部省に一括計上する異例の措置を講じ、全体的な整合性を確保し、事業の推進に努力していました。なお、日本の観測計画は、東経140度線を中心とする電波、電離層、極光、夜光、地磁気等地上からの観測に限られ、ロケットによる対流圏の観測と南極地域の観測は、手の届かぬものとして除外されていました。──(岡野)

 ところがたまたま1955年1月初め、毎日新聞に「科学は作る」というシリーズ掲載があり、そこに糸川の「学者の夢」が記事にされた。「太平洋を20分で横断」と書かれたその一文のユニークな発想に、岡野は強い印象を受けた。それは「AVSA研究班の計画と夢」であった。岡野は、その研究班の研究を進展させ、観測用ロケットとしてIGYの観測に利用できないかと考え、舞台回しにかかった。まず生研の星合所長に検討を依頼するとともに、糸川の来省を求めた。

岡野は糸川に単刀直入に尋ねた、「1958年までに、高度100kmあたりまで到達できるロケットを日本が打ち上げることは可能ですか?」糸川はためらわずに答えた、「飛ばしましょう。」糸川の挑戦が始まった。そのときの岡野の印象。

──糸川教授は、才気活発、その五体はエネルギーで充ち充ちていた。およそ象牙の塔に立てこもる大学教授とは異なり、きわめて行動的で、目的達成のために有効と思われるあらゆる手段を総合的に把握し判断するその速さには感銘した。──(岡野)

糸川と永田が東京一中(現在の九段高校)の同窓生、それもオーケストラ部の先輩と後輩だったことが効を奏したかどうかは不明だが、この二人を中心として進められた協議はとんとん拍子で進み、最終的には1955年9月にブラッセルで開かれたIGY特別委員会において、日本は地球上の観測地点9箇所のうちの一つを担当することになった。

 生研の前身である第二工学部は、終戦時に60の講座と15万坪の敷地を持ち、創設の日が浅いこともあってパイオニア精神に溢れていた。これらを生研の資質と仮定するならば、ロケットという総合研究は、まさに生研的資質を受けた申し子のような存在だった、と言うことができよう。

かくてペンシルを開発したAVSAグループは、IGYの日本参加を支えるという決定的な任務を負うことになった。日本の宇宙開発は、その草創の時代から、宇宙科学と宇宙工学がガッチリと腕を組んだ形で、その険しい道を登り始めた。
 その最初の花火が、ペンシルロケットの水平発射であった。


科学は作る(毎日新聞 1953.1)




分解されたペンシル


国分寺のペンシル実験風景


国分寺のペンシル実験の道具立て


国分寺の糸川の秒読み
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