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  国分寺のペンシル  
ペンシルの水平発射

 JR国分寺の駅で下車し、北口の階段を降りてから新宿方面に向かって線路沿いの道をしばらく歩くと、早稲田実業がある。ここの校庭は、1955年(昭和30年)当時、新中央工業の工場の跡地であった。現在国分寺に在住する原嶋愿次さん(91歳)は語っている。

──7〜8mぐらいの所から2時間ぐらい見ていたんですけどね。鉛筆みたいなかたちの物体が、障子紙を貼った的に向けて水平にシュポシュポと飛んでいきました。速かったですねえ。中には向こうまで行かないうちに的の手前で落ちた物もありましたねえ。かと思えば、よく飛ぶから発射台を後ろへやれなどという会話も耳に入ってきました。発射台から的までの距離を測ったりする光景も記憶にあります。実験班の人は、もっと早く打ちたかったんだけど適当な場所がなかなか見つからなかったと話していましたよ。──(原嶋)

 新中央工業はその国分寺の工場で以前「ナンブ銃」を製造していた。そこに銃を試射するピットがあった。糸川英夫が戸田康明と自分の研究室の若手である吉山巌を伴ってそのピットを訪れたのは、1955年2月末のことだった。いくつかのコンクリートの建屋を見て回り、そのうちの一つに目をつけた。吉山巌が高速度カメラの電源を探し出し、幸い三相200ボルトの電源が見つかったが、生きているか死んでいるか分からない。再度調査することにして、3人は工場を後にした、その試射場予定地の周囲に顔を覗かせていた草の青い芽を、吉山はなぜかいつまでも覚えている。

 3月11日、このピットで、ペンシル初の水平試射を行い、次いで4月12日には、関係官庁・報道関係者立会いのもとに、公開試射を実施した。

 ペンシルは、長さ1.5 mのランチャー(発射台)から水平に発射され、細い針金を貼ったスクリーンを次々と貫通して向こう側の砂場に突き刺さった。ペンシルが導線を切る時間差をオッシログラフで計測してロケットの速度変化を知る。スクリーンを貫いた尾翼の位置と方向からロケットの軌道とスピンを測る。高速度カメラの助けも用いて、速度・加速度・、ロケットの重心や尾翼の形状による飛翔経路のずれなど、本格的な飛翔実験のための基本データを得た。

 この水平試射は、4月12日、13日、14日、18日、19日、23日に行われ、29機すべてが成功を収めた。これらのペンシルには、推薬13グラム(またはその半分の6.5グラム)が詰められ、推力は30 kg程度、燃焼時間は約0.1秒、尾翼のねじれ書は0度、2.5度、5度の3種で、機体の頭部と胴部の材質には、スチール、真鍮、ジュラルミンの3種類が使われた。また重心位置が前後の3箇所に変化するようになっていた。

 速度は、発射後5 mくらいの所で最大に達し、秒速110〜140 m程度だった。半地下の壕での水平発射とはいえ、コンクリートの向こう側は満員電車の往き来する中央線である。塀の上に腰掛けている班員が、電車が近づくとストップをかけ、秒読み中断されるのであった。

  このペンシルの水平発射は、この年の文部省の十大ニュースの一つに選ばれた。


実験の合間に


ランチャセット


ペンシルの水平発射


ペンシル連続撮影

スミソニアンのペンシル

 ペンシルの小さな機体には、その後の私たち日本人が抱く宇宙への憧れが凝縮してつまっていた。その歴史的なペンシル水平発射の37年後の1992年、「ペンシル・ロケットの模型をワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館に展示することになった」との報せが宇宙研に届いた。宇宙研ではすぐにペンシルのレプリカを送ったのだが、順番待ちでなかなか展示開始のニュースが届かなかった。しかし今ではペンシルは、「宇宙飛行の歴史」のコーナーに、豊富な展示物の中ですぐ目につく所に、瀟洒なケースに入れて置かれている。日本の可愛い象徴として、大勢の子どもたちの記念写真の人気者になっている。



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