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ペンシルロケット物語
  プロローグ  
火薬の申し子、村田勉のこと

 日本で正式に火薬製造の流れ作業が開始されたのは、1909年のことだったが、この年6月3日、熊本で一人の男の子が生まれた。後に日本で初めてのロケット打上げに挑戦し、「火薬の申し子」となる村田勉である。

 村田は小学校六年生のころに自製のゴム銃を作って鳥を撃った経験を話してくれたことがあるが、中学時代に読んだ三上於兎吉の『春は蘇れり(地獄の彼方の天国)』という小説が、大学で火薬を専攻する大きなきっかけとなったそうである。それは一人の青年技師が苦心惨憺して立派な火薬を発明して国家のために貢献する物語だった。

 1934年、辻堂の海岸で、ひとりの若者が手製の発射台から粗末なロケットを発射した。海岸に向けて発射したはずのロケットは大きく弧を描いてその若者の頭上を越え、後ろの林の中に落下したそうである。これが私の聞く限りでは日本で初めてのロケット打上げである。その若者が村田勉であった。

  村田は後に第二次世界大戦のさなか、コレヒドール攻撃用ロケットの開発のリーダーシップを取った。また戦艦大和の40 サンチ砲の火薬も、この人が中心になって設計されたものである。


着手小局
──お金は大学から貰う60万円では足りないので文部省からの科学研究補助金からも40万円の資金を貰いました。一方で通産省が、民間企業に研究補助金を出す仕組みを持っていました。富士精密はそれに応募して230万円貰ったと思います。それに富士精密も同額を出して、ペンシルのアクティビティが進み出しました。──(野村)

 1954年にAVSA研究班は研究費60万円を受け、高速衝撃風洞の建設とロケット・テレメータ装置の研究を目指して、その活動の第一歩を踏み出した。それとは別に、野村が語るように、文部省から科学研究補助金40万円と通産省から富士精密に工業試験研究費230万円が下付された。通産省の補助金は、それと同額を会社側も出すことが前提になっていたため、それを合わせると560万円の年間費用となった。

 その時の話。

 通産省の補助金をもらおうと、富士精密の戸田と垣見が2人で通産省を訪ねた。

──そのとき通産省の若い官僚が、「国の金を使って利益を上げるとは何事か」と、こういう言い方をしました。その時は私も若気の至りで、「あんた何を言ってるんだ。遊びでやっているわけじゃない。会社というのは、利益を上げる事が主たる業務である。それを赤字でも何でも良いからやるというわけにはいかない。利益を上げるために国民の税金を使うとはとんでもないなんて考え方があるか」と、戸田さんと向こうの課長の前で、掴み合いにならんばかりの大喧嘩をやってしまいました。

向こうの課長が間に入って収まったわけですが、帰ってから戸田さんに「行政に対してなんて事を言うのだ」と怒られましたが、私は「利益を上げる事がまるで罪悪であるような言い方をする頭は治さないといけない、そういうのがこれから上へ上がっていく人間だとしたら、早いうちに治しておかないとおかしな人間になる」と、譲りませんでした。

しかし結局謝りに行こうという事で、戸田さんに連れられて、「悪い事をしました」と、謝りに行ったら、向こうの担当者も怒られたらしく「官庁の方もとんでもない事を言いました、これはお互いに水に流しましょう」という事で収まりました。──(垣見)


 多くの小型ロケットが試作され、工場で燃焼試験が行われた。その中から生まれたのが、戸田康明が村田勉のもとから持ち帰ったマカロニ状推薬の大きさに合わせて作られた、直径1.8 cm、長さ23 cm、重さ200グラムのペンシルロケットである。思えば貴重な虎の子だった。

 ダブルベースは、ニトリグリセリンとニトロセルロースを主成分とし、それに安定剤や硬化剤を適当に混入し、かきまぜこねまわして餅のようにしたものを圧伸機にかけて押し出す方式のものである。

 ノーズ・コーンや尾翼の形状を決定したのは玉木章夫であった。尾翼は、矩形、三角翼等々を試す中で、玉木の指示でクリプトデルタ形が選ばれた。次いで空力中心を測定し、ロケット重心と空力中心の距離をかえて飛翔の安定性を調べた。このために、突端部の金属をジュラルミン、真鍮、スティールと変え、尾翼の取り付け角を変えて、旋転させたときの軌道を計測することとした。

 富士精密の荻窪工場内にテストスタンドと計測装置を作って燃焼実験が続けられ、翌年3月、いよいよ試射が行われることになった。

 そのうち朗報が飛び込んできた。日本油脂の武豊工場の倉庫で、もっと大きな圧伸機が眠っていたというのである。太平洋戦争でフィリピンのコレヒドール攻撃に使っていたものらしい。富士精密の荻窪工場の一部に地下式テストスタンドを作り、1954年のうちに直径65 mmというチャンバーをもつロケットモータの地上燃焼試験も行われた。後のベビーである。

 しかしこの間に、ペンシルに専念していたAVSA研究班を、思いもかけない運命が待ち受けていた。


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