日本で正式に火薬製造の流れ作業が開始されたのは、1909年のことだったが、この年6月3日、熊本で一人の男の子が生まれた。後に日本で初めてのロケット打上げに挑戦し、「火薬の申し子」となる村田勉である。
村田は小学校六年生のころに自製のゴム銃を作って鳥を撃った経験を話してくれたことがあるが、中学時代に読んだ三上於兎吉の『春は蘇れり(地獄の彼方の天国)』という小説が、大学で火薬を専攻する大きなきっかけとなったそうである。それは一人の青年技師が苦心惨憺して立派な火薬を発明して国家のために貢献する物語だった。
1934年、辻堂の海岸で、ひとりの若者が手製の発射台から粗末なロケットを発射した。海岸に向けて発射したはずのロケットは大きく弧を描いてその若者の頭上を越え、後ろの林の中に落下したそうである。これが私の聞く限りでは日本で初めてのロケット打上げである。その若者が村田勉であった。
村田は後に第二次世界大戦のさなか、コレヒドール攻撃用ロケットの開発のリーダーシップを取った。また戦艦大和の40 サンチ砲の火薬も、この人が中心になって設計されたものである。
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