戸田は1954年の正月早々に虎の門に火薬協会を訪ねたところ、即座に「火薬のことなら旧海軍技術将校、戦後日本油脂(株)に行かれた村田博士しかありません」と断定された。
村田は知多半島武豊の日本油脂の火薬工場に勤務していた。戸田は早速に連絡を取り、1954年2月6日に会う約束をとりつけた。当時の武豊はまことに交通が不便で、戸田は夜23時30分東京発の汽車に乗り、車内で仮眠し、名古屋に着いたのは早朝の4時30分であった。真っ暗な名古屋駅構内にポツンと灯りがついている。近寄ってみると風呂屋の看板だったので、時間つぶしに朝風呂としゃれた戸田だった。朝5時過ぎに開店した構内食堂で朝食を掻き込むと、汽車で逆行し、大府乗り換えで武豊へ。ウソのような長旅となった。昔の人はたくましかった。
2月6日朝6時30分に武豊駅に着き、少し歩くと日本油脂(株)武豊工場に到着したが、朝早すぎて正門は閉まっている。始業は8時半と書いてある。散歩して時間をつぶそうと工場の鉄条網づたいに山道を登っていった。2月初旬の肌寒い風に吹かれ、眼下にひろがる広大な工場の敷地を眺めながら、戸田は「これからロケットでどのような仕事をすることになるのだろう」と思いに耽るのだった。
さて時間がきて日本油脂の本館に降りていき、来意を告げると、すでに村田は待っていてくれた。戸田は村田をひと目見て「こりゃ几帳面そうな人だな」と思ったという。短い挨拶の後、すぐにロケット開発への協力を依頼したところ、この海軍きっての火薬の研究者は直ちに「賛成です。全力を挙げてやりましょう」と応えてくれた。まさに打てば響くような反応だった。
当日の話し合いでは、すぐに提供できる推薬は、近距離から敵の戦車や飛行機を攻撃するロケット弾用に用いたダブルベース(無煙火薬)で、直径9.5 mm、内径2 mmという中空円筒のマカロニ状のもの。長さが123 mmであった。戸田は、いかにも小さいなという感じを持ったが、とにかく帰って糸川と相談しようと決心し、手持ちのカバンに数十本入れて帰京した。
東京に帰ってAVSAグループにこのマカロニを見せた。志の大きさに比べて、この「マカロニ」の小ささはどうだ。メンバーは言葉もなかった。糸川が沈黙を破った。
「いいじゃないですか。費用も少なくて済むし、数多くの実験ができる。大きさにこだわっている場合ではないでしょう。すぐに実験を開始しましょう。」
反論する人もいた。
「でもこれじゃあ、どうやって観測機器を積むんですか。」
反論を予想していたかのように糸川はたたみかけた。
「高度100 km近くまで飛ばすものを作るには、さまざまなデータが必要です。データをとるには何度も飛ばさなければならない。毎回大きなものを作って飛ばせば、コストがかさみます。このちっぽけな固体燃料に合わせて小さなロケットを作るしか、当面打つ手はありませんよ。」
糸川は即決した。こうして東京大学のロケット開発は、一本5000円の固体燃料を主体として歩むことになった。
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