ご覧いただいているページに掲載されている情報は、過去のものであり、最新のものとは異なる場合があります。
掲載年についてはインタビュー 一覧特集 一覧にてご確認いただけます。


ボリス・チェルトック 「日本とロシアの新しい協力に向けて」
1912年生まれ。ロシア人。モスクワエネルギー大学を卒業後、航空機産業に従事。第2次世界大戦直後にドイツに渡り、V-2ロケットの調査を指導。以後、セルゲイ・コロリョフ等とともに旧ソ連の宇宙開発の第一線で活躍するが、ソ連崩壊以前に彼の存在が公にされることはなかった。史上初の人工衛星スプートニクの打上げや、ガガーリンの有人飛行などに誘導制御技術者として参加。アメリカとの有人月飛行レースでは、N1ロケットで挑むが、4回の打上げに失敗をして開発中止になるという苦い経験を持つ。現在は、モスクワ技術物理大学の教授を務める他、ソユーズやプログレス宇宙船を製造するRKKエネルギア社の相談役を務める。現ロシア科学アカデミー会員。
インタビュ−再生1 インタビュ−再生2
Q. 旧ソ連時代と現在のロシアの宇宙開発について、大きな違いがありましたらお聞かせください

世界初の人工衛星スプートニク  まず我が国のロケット技術の歴史についてお話させてください。我々が世界初の人工衛星「スプートニク」を打上げてから47年、またユーリ・ガガーリンによる史上初の有人宇宙飛行を行ってから43年 が経ちましたが、この2つの出来事は、宇宙空間を研究・利用する人類の新しい活動のスタートだったと言えるでしょう。ロシア人的な言い方をすると、自分の手で宇宙に触れることが可能であると皆に示した事柄でもありました。
 私は現在92歳です。旧ソ連時代に実現した、この2つの出来事に私は技術者として参加しましたが、これらのロケットおよび宇宙開発に携わる以前は、航空機産業の技師として働いていました。第二次世界大戦が終結した年に、航空機の仕事を続けるかロケット技術の新しい仕事をするかの選択を迫られたわけですが、私は戦争に敗北したドイツ領土内で、ドイツが開発した史上初の長距離弾道ロケット「V-2」を調査・復元するという職につくことにしました。なぜなら、飢餓に苦しむ戦後の旧ソ連内で仕事を見つける事が困難だったためです。
 1945年にドイツの秘密基地ペーネミュンデに入り、ドイツとの共同事業としてロケット製造開発研究所(ラーベ研究所)を設立し、ドイツの技術者らと共に、V-2ロケットの復元に向けて新しい設計を始めました。その指揮をとったのが、旧ソ連の宇宙開発の指導者で、史上初の人工衛星打上げや有人宇宙飛行を成功させたセルゲイ・コロリョフです。私たちは1年半の間、ドイツのV-2ロケットやロケット関連施設の調査を行った後、1947年に旧ソ連に戻り、その年の秋にV-2ロケットをコピーしたロケットの打上げに成功しました。これが我が国の長距離弾道ロケット技術の歴史のスタートです。
史上初の長距離弾道ロケット V-2 それ以降、コロリョフが1966年に他界するまでの20年間、私は彼と一緒に仕事をしました。特に最後の10年間は、主任設計者であるコロリョフの直属で宇宙船の制御システムの開発を担当していました。

 第二次世界大戦で大きな損害を受けたにも関わらず、史上初の人工衛星や有人宇宙飛行など数々の偉業を達成してきたことは、自らの驚きであると共に、大きな誇りでもあります。
 たいていの歴史学者やジャーナリストは、20世紀の宇宙分野の成功を、学者、設計者、技術者、英雄となった宇宙飛行士たちの功績だと言います。ロシアでは、セルゲイ・コロリョフとユーリ・ガガーリンの名が永久に挙げられることでしょう。しかし、宇宙分野での成功や失敗は、学者や技術者、宇宙飛行士だけではなく、国家の政治家のイニシアチブ(主導権)があって初めて実現したことを忘れてはなりません。
 20世紀の宇宙大国は旧ソ連とアメリカ合衆国で、両国には立派な学者や技術者、空想家たちがいました。しかし、それは成功するために必要な条件ではありますが、それだけでは決して十分ではありませんでした。これだけの大事業は国家のリーダーシップがあってこそ出来ることです。なぜなら、衛星を使った通信・放送システムや地球観測、情報収集など宇宙技術は、軍事、国家経済、社会、科学研究の諸問題と密接に絡み合っているからです。
 ロケットや宇宙工学技術は、科学研究を必要とする他の一連の技術を引き出す原動力のようなものであり、今まで考えもしなかった新たな発見に導くものであります。しかし現在、多くの国家指導者、特にロシアの指導者がこのことを理解していません。これは非常に残念なことです。


  1  2  3  4
次へ