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JAXAのX線天文観測「世界をリードする日本のX線天文観測 ―――激動する宇宙のシグナルをとらえて謎を解く」
世界をリードする日本のX線天文学

日本はX線天文学の分野で世界の最先端にいると言われています。なぜ日本は世界のトップランナーになることができたのか? 日本のX線天文学の創成期から精力的な活動を続けられている田中靖郎先生にお話を伺いました。
田中靖郎
									JAXA名誉教授
									独マックス・プランク宇宙物理学研究所客員研究員
日本のX線天文学の始まり

X線天文学の歴史は1962年、リカルド・ジャッコーニ(2002年ノーベル物理学賞受賞)らが観測ロケットを使って予想外のX線星を発見したことに始まります。その翌年には、故・小田稔先生が、X線星発見者の一人、ロッシ教授からマサチューセッツ工科大学(MIT)に招かれ、そこで有名な「すだれコリメータ」を開発されました。続いて私もオランダのライデン大学で、気球を使ってX線の観測を始めました。小田先生は、1966年に帰国され、東京大学宇宙航空研究所にX線天文グループを新設されます。そして、既に日本のロケットでX線観測を始めていた名古屋大学の早川幸男先生のグループと共に、日本のX線天文学研究の基盤を確立したのです。翌年、私も名古屋大学に帰任しました。この草創期に、小田先生、早川先生という偉大なリーダーがおられたことは誠に幸運でした。当時はロケット観測しかできませんでしたが、自力で観測装置の開発を進め、精力的に観測を行いました。このように、日本のX線天文学への取り組みは、世界的に見ても早かったのです。

1970年、ジャッコーニの主導で世界初のX線天文衛星「ウフル」が打ち上げられました。その年、日本も初の人工衛星「おおすみ」(世界で4カ国目)の打ち上げに成功し、自力で科学衛星を打ち上げる能力を持つに至ったのです。その直後から日本でも小田先生が中心になって、X線天文衛星「CORSA」の準備が着々と進められました。

「ウフル」打ち上げから6年後の1976年、日本で初めてのX線天文衛星「CORSA」が打ち上げられたのですが、残念ながらロケット制御の不調で失敗に終わります。しかし、小田先生の奮闘と、研究者、技術者一体になった懸命の努力の結果、わずか3年後の1979年、「CORSA-b」の打ち上げに成功したのです。これが日本で初めてのX線天文衛星「はくちょう」です。「ウフル」に遅れること9年ですが、日本は米英に次いで世界で3番目のX線天文衛星保有国となりました。小田先生の「すだれコリメーター」を載せた「はくちょう」は、当時発見されたばかりのX線バースト源を次々と見つけるなど、中性子星の研究で目覚しい成果をあげました。「はくちょう」の成功は、日本のX線天文グループが世界のトップに追いつく大きなステップとなったのです。

小田稔博士 写真
ウフル イラスト
田中靖郎(たなかやすお)
田中靖郎博士 X線天文学黎明期から世界のX線天体物理をリードする宇宙物理学者。
大阪大学卒業。1962年から名古屋大学理学部助教授として、日本のX線・赤外線天文学の創始者の1人である早川幸男教授とともに研究を主導。この間、1963〜67年には、ライデン大学(オランダ)からの招きで研究主幹となり、ヨーロッパにおける宇宙科学グループの立ち上げに貢献する。1967年、日本初のX線天文衛星「CORSA」を準備するために帰国。以後、故・小田稔教授、早川教授と共に日本のX線天文学の黎明期を支える。1974年、東京大学宇宙航空研究所(1981年より文部科学省宇宙科学研究所)教授に着任。1987年の「ぎんが」より日本のX線天文衛星の総責任者となり、日本のX線天文学をリードする。1992年には、宇宙科学研究所(現JAXA宇宙科学研究本部)副所長となる。1994年退官。その後1997年、マックス・プランク宇宙物理学研究所(ドイツ)の客員研究員となり現職。JAXA名誉教授。
1  2  3 日本のX線天文学研究の戦略
1.X線天文学とは 2.世界をリードする日本のX線天文学 3.ASTRO-EII--2005年夏、宇宙へ
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