宇宙法 TOP
目次 巻頭言 凡例 第1章 第2章
第3章 第4章 後書き アペンディクス 索引

解 説
  ポスト戦後の国際秩序のリーダーシップを巡る二極対立
  ―宇宙の「開発事始め」―
高 井  晉


 国の領域は、領土と領海およびその上方に存在する領空で構成される。宇宙は、国際公域の公空と領空の上方にある。宇宙空間や天体の存在は、人類がこれらの区域で活動するはるか以前に認識されており、様々な形で人類に夢と希望を与え続けてきた。人類が実際に空間を利用できたのは、航空機が発明された今世紀に入って以来である。飛行の自由を目的として作成されたパリ条約(1919年)、マドリッド条約(1926年)、ハバナ条約(1928年)が、1945年にはシカゴ条約が締結された。これらの諸条約は、国の領土と領海の上方に一定の「空域」の存在を認め、そこは完全かつ排他的な領有権が認められた空間であるとした。しかし、上方の限界については依然不明のままであった。

 宇宙空間の開発は、空域に関する定義がなされないまま、米ソ両国によって進められていった。軍事用の人工衛星や打ち上げロケットが自国空域を許可なく通過したにもかかわらず、被通過国は領空侵犯を非難しなかった国家実行が繰り返された。その結果、上空を空域と宇宙空間とに明確に分けず、各区域における活動の目的あるいは方法によって、その法的地位を区別した。人工衛星の最低軌道から下の空間は、空法が適用される「空域」であり、「空域」の上方は主権行使が制限される「宇宙空間」で、そこは宇宙法が適用される空間であることが合意された。月その他の天体における人類の活動についても、同様に宇宙法が適用される。

 第二次世界大戦後始まった東西対立という冷戦は、米ソ両国の長射程の戦略ミサイルの開発を推進し、戦略ミサイルの推進力と制御力の向上は人工衛星の打ち上げに大きく貢献した。米ソ両国は、宇宙空間の軍事的重要性に着目し、この空間の開発は国際秩序のリーダーシップを獲得する上で不可欠のものと認識していた。1955年7月、アメリカは1958年末までに人工衛星を打ち上げることを表明し、翌日、ソ連も同様の発表を行った。これらの声明は、太陽の黒点が最大になる1957年7月から翌年12月までの地球観測年への貢献を目指したものであったが、同時に、宇宙開発を巡る米ソ両国の威信をかけた競争の幕開けを告げるものでもあった。

 1957年10月4日、ソ連は予告通りに、重量184ポンドのスプートニク1号を人類初の人工衛星として 地球軌道上へ打ち上げた。アメリカは、スプートニク1号に遅れること4カ月後の1958年1月31日、初 の人工衛星エクスプローラー1号の打ち上げに成功した。バン・アレン放射線帯の発見は、この打ち上げの成果であった。アメリカは、同年10月、軍とともに宇宙開発を推進することになる国家航空宇宙局(NASA)を設置し、一般用の衛星打ち上げにも従事させた。

 これら人工衛星の打ち上げ成功により人類の宇宙活動が現実のものとなったため、宇宙法秩序の作成が要請された。国連は、1958年の第13回国連総会決議1472に基づいて、翌年に「国連宇宙空間平和利用委員会(COPUOS)」を設置し、その法律小委員会に立法作業の任務を付与した。この間にも宇宙空間の開発が続けられ、1959年には早くも写真偵察衛星が実用化されている。1960年になると、アメリカは早期警戒衛星を利用したMIDASを実用化し、ソ連のICBMの警戒時間を従来の倍の30分に延ばすことに成功した。この年、アメリカによって初の気象衛星、航法衛星、受動型通信衛星が打ち上げられた。

 人工衛星打ち上げに続く米ソ両国の次の目標は、有人衛星の打ち上げであった。有人衛星をより早く地球軌道上に打ち上げることは、宇宙開発を一層発展させると同時に、宇宙開発技術の信頼性を裏づけることになるからである。ソ連は、1960年8月のライカ犬を乗せたスプートニク8号の成功に続いて、61年4月、ガガーリン少佐の搭乗したヴォストーク1号による人類初の有人軌道飛行を成功させた。アメリカが有人宇宙船フレンドシップ7号の打ち上げに成功したのは、それから10カ月後であった。

 1961年12月の第16回国連総会における宇宙法原則宣言の採択は、翌62年の本格的な宇宙時代の幕開 けを告げるものであった。COPUOSの法律小委員会第1回会合は、5月28日のことであった。同委員会は、宇宙空間の軍事利用の問題に正面から取り組むことを避け、その任務の範囲を平和利用の問題に限定しようとした。米ソ両国は、各宇宙開発の担い手が軍事組織であることから、宇宙空間の軍事利用の自由を確保しようとして、国連の場でこの問題を討議することを好まなかったからである。国連総会は、宇宙空間の平和利用に関する決議を幾度となく採択したが、これらの決議は軍事利用を含まない平和的利用の問題についてのものとなっていた。軍事利用の規制に関する問題は、軍縮の一環として取り扱われ、軍縮委員会で討議されることになった。

 米ソ両国以外の各国が宇宙利用に向けて具体的な活動を行うようになったのは、この年以降のことである。フランスは国立宇宙研究センター(CNES)を設立し、欧州宇宙ロケット開発機構(ELDO)や欧州宇宙研究機構(ESRO)が発足した。イギリスとカナダが初の衛星を打ち上げ、日米間の初のテレビ中継があったのもこの年である。63年2月には、アメリカが民間通信衛星会社であるコムサットを設立し、翌年8月、国際電気通信衛星機構(インテルサット)暫定協定が成立するとともに、12月にイタリアがアメリカの協力で初の衛星を打ち上げた。

 この頃の米ソ間の宇宙開発競争はいよいよ佳境に入り、人類初の月面到達を巡ってしのぎを削っていた。ソ連は1966年2月にルナ9号月面到達に成功させたが、アメリカは5月にサーベイヤー1号を月面に到達させた。徐々に縮まった技術格差が逆転したのは、1969年7月16日に打ち上げた有人宇宙船アポロ11号による20日の月面軟着陸であった。ソ連は、アポロ11号打ち上げの4日前に無人宇宙船ルナ15号を打ち上げていたが、これは月面に到達したのみで二度と地球へ帰還できなかった。

 米ソ間の宇宙開発技術が接近し逆転したちょうどその頃、COPUOSの法律小委員会の立法作業は大詰めを迎えていた。1966年の第5回会期で合意に達した条約草案は、12月19日、国連総会決議2222(XXI)として採択され、この宇宙活動の憲法とでもいうべき宇宙条約は、翌年10月10日に発効した。この条約草案審議に際して宇宙空間の「平和的利用」の解釈を巡って米ソ間に争いがみられたが、今日では、「非侵略的利用」を意味するというアメリカの立場をソ連も理解している。1968年12月3日には、宇宙救助返還協定が発効した。翌年には、国際電気通信連合条約(ITC)が成立し、同年10月1日の宇宙開発事業団(NASDA)の発足をもって日本の宇宙開発が本格的に開始された。

 かくして、宇宙の「開発事始め」からの15年間は、ポスト戦後の国際秩序のリーダーシップを巡る二極対立から生じた米ソ間の宇宙開発競争の時代であり、天体と宇宙空間の法的地位明確化の時代として特徴づけられよう。この時代における両国による主要な宇宙開発は、ほぼ完全に別個の努力によって達成されたものであって、言葉の持つ厳格な意味で競争的なものでないとするなら、政治的な敵対関係の結果であったといえよう。米ソ間に宇宙協力に関する会談が始まるのは、ようやく1971年1月になってからのことである。

(防衛庁防衛研究所第一研究部第二研究室長)