解 説
宇宙開発利用の米ソ二極構造から国際協力への展開
小菅敏夫
スプートニックショックで始まった宇宙開発競争は、米ソの対立の中、軍備拡張競争と相まって、それぞれの国家威信をかけて、1970年代に入るのである。米ソを中心とした宇宙開発は、その性格が、当初の探査・科学的調査研究から利用開発への動きが急速に発展するのもこの時期の特徴である。また、宇宙開発利用へ新たに参入する国や地域的協力による国際機関の登場もこの時期における新たな動きである。さらに、宇宙開発利用の活動の拡大、多様化に対応するための法制度への新たな議論が国連や他の国際機関を含め展開され、より具体的宇宙活動に伴う問題処理が重要になってきた時期でもある。従来の米ソの二極構造の宇宙秩序からより多くの国家、国際機関等のプレイヤーを含めた国際協力への動きが出てきたことが特徴的である。
1960年代における米ソを中心とした宇宙活動の多くは、月や金星、火星等の惑星への探査(ルナ衛星、サーベイヤー衛星等)、有人衛星による月の探査(アポロ衛星等)にみられるように、宇宙科学技術の発展に重点を置いたものが多かったのである。しかしながら、1960年代中頃から急速に実用化の方向に動いたのは、宇宙通信や、リモートセンシングの技術開発である。特に米国は、いち早く1960年にはエコー衛星1号の打ち上げで初の受動型通信衛星に成功、62年にはテルスター衛星1号の打ち上げに成功し、これが初の能動型通信衛星となった。周期軌道上の通信衛星から静止軌道上(赤道上空約36,000km)の通信衛星は、米国の打ち上げた1964年のシンコム3号により24時間の利用が可能になったのである。静止軌道上に通信衛星を打ち上げる技術の開発は、これ以降の世界の情報通信を革命的に変えることになった。1964年の世界商業通信衛星組織(インテルサット)暫定協定の成立による衛星通信の実用化(商業的利用)への道が開かれた。
ソ連は、1965年にモルニア衛星の打ち上げに成功し、これが初の通信衛星になった。ソ連の主導で東欧諸国を中心としてインテルサットに対抗して1972年にインタースプートニクが設立された。しかし、静止衛星の実用化は1974年以降になってからである。
1970年代は、先にみたように宇宙通信の技術開発により、米ソは勿論、フランス、カナダ、西ドイツ、日本、インドネシア、中東及び北アフリカのアラブ諸国、西ヨーロッパ諸国の通信衛星の利用が行われるようになり、国際的にも多くの国が提供される衛星通信サービスを利用できるようになったのである。この時期に設立された衛星通信組織は先のインテルサット(暫定協定から1973年恒久化協定の発効)、インタースプートニクのほか、主に海上移動の船舶に対する衛星通信サービスを提供する「国際海事衛星機構(インマルサット)に関する条約」が1979年に発効している。また、アラブ連盟加盟21カ国により1976年に設立されたアラブ衛星通信機構がある。1976年インドネシアが打ち上げた国内通信衛星パラパ1号は、後には東南アジア諸国連合(アセアン)の加盟国の国内通信用にも利用された。
静止衛星の利用の増大は、宇宙空間の特殊な位置の重要性(経済的価値、有限な資源)から国際社会の従来から妥当としてきた“早い者勝ち”の原則に対して、途上国側から特に赤道上に位置する国々から静止衛星軌道に対する排他的管轄権の主張が1976年「ボゴダ宣言」として出され、これは宇宙空間への国家の主権的権利の主張を意味した。このことは、後日静止衛星軌道を有限な天然資源として全ての国がアクセスできるようにする国際的なシステムを生むことにつながった点で注目できる。
静止衛星の利用は、通信だけでなく、直接放送やリモートセンシング、特に地球資源探査衛星、気象衛星の利用等新たな応用へと発展していったのである。衛星の放送への利用は早い時期から考えられていた。国内における利用は技術的な混信の問題以外には特にないが、国際放送とりわけテレビジョン放送に関しては、国境を越えての番組送信について、従来から国際社会における合意形成がなされていない。特に衛星を利用しての直接衛星放送テレビについては、その影響の大きさからも多くの議論が予想されていた。
宇宙空間平和利用委員会でも1970年代の初めの頃からワーキンググループによる検討が開始されたが、米ソ間の対立、先進国と途上国間の対立など情報の自由な流れと規制を巡る問題は、十余年にわたる議論の末、条約化には至らず、1983年国連総会において「直接テレビジョン放送衛星(DBS)原則」が総会決議として多数決により採択された。同様にリモートセンシングに関しても、DBSにおける情報の自由な流れに対して、情報の自由な収集活動をいかなる制度におくべきかの議論が起こり、特に途上国と先進国との対立が続き、DBSと同様1986年の国連総会決議により「リモートセンシング原則宣言」にとどまっている。
一方、1970年代に入り宇宙活動のプレイヤーの増加、また活動内容の多様化、打ち上げ衛星の増加等から、活動から起こる事故等の問題が出てきたことも注目しなければならない。宇宙物体の打ち上げ時や宇宙空間での事故、宇宙物体の地上への落下による事故等が起こったのである。1971年ソユーズ11号帰還中に3名の宇宙飛行士の事故死、1978年ソ連の原子力衛星コスモス954号がカナダ北部に落下し放射能を含む宇宙物体の破片が広範囲に散乱した事故、また1979年米国の有人宇宙実験室「スカイラブ」の宇宙物体がオーストラリアに落下した事故などが代表的なものである。こうした宇宙活動に伴う損害賠償責任に関しては先の宇宙条約中にも規定があるが、基本的な規定にとどまり、より詳細な新たな条約が検討されてきた。これが1971年国連総会において採択された「宇宙物体により生ずる損害の国際的賠償責任に関する条約」で、翌年発効したのである。また、原子力の宇宙での利用については、1978年の原子力衛星の事故以降その利用をいかにすべきかを巡る議論が国連の宇宙空間平和利用委員会の中で行われたのである。
1970年代は前述した宇宙活動国以外にも中国、インド、オランダ、スペイン、イタリア、チェコスロバキア等が米ソ等の協力の下宇宙活動に参入し、単独または二国間、多国間の協力で活動を行ってきている。宇宙探査開発利用は、巨大科学技術開発を不可欠としているため、国家プロジェクトとして莫大な国家予算や、人的資源の育成を必要としてきた。軍事的意味においても宇宙開発プロジェクトを重要政策としてきた米ソを除けば、他の国々は限られた資源をいかに有効に効率的に使用するかが課題であった。この時期、前述したように、国際協力の形での宇宙開発が、多くの国でとられてきた。平和共存時代への転換期を迎え、米ソ間でも宇宙開発を巡る協力が進み出した。また、ソ連の主導のもと東欧諸国間の宇宙協力機関の設置(インターコスモス、1972年)、西欧諸国間の欧州宇宙機関の設置(1972年)など地域的な国際協力が歩み出した。二国間、多国間レベルでの協力が様々な宇宙活動の分野で展開を始めたのがこの70年代の特徴である。
(電気通信大学教授)
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